冷たい密室と博士たちを読んだ

冷たい密室と博士たち
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考え方を学びたくて読んでるのかもしれない。

すべてがFになるを読んで主に真賀田四季の魅力にドハマリし、これは四季シリーズまで読むしかないと続きを読んでいくことにしたわけですが、四季シリーズにたどり着くまではかなり長い道のりっぽいですね。四季シリーズ読むにはやっぱりVシリーズも読み終えてからのほうがいいんでしょうか?

このシリーズを読みたいという原動力は、私の場合真賀田四季に魅了されたインパクトによるところが大きいです。しかしそれだけというわけではなく、犀川先生と西之園君のコンビの魅力も欠かせません。

真賀田四季に魅了されたのは、その天才っぷりとお茶目な一面に魅了されたからと、「すべてがFになる」の時点で明確でした。一方で、犀川先生と西之園君に惹かれる理由は曖昧でした。掛け合いが面白い、理系人間っぽさがいい、などとぼんやりとしていました。

しかし続きの「冷たい密室と博士たち」を読んでみると、惹かれた理由が理解できたように思います。

簡単にいうと、「西之園君→犀川先生」の図式が、私の「現在の考え方→理想とする考え方」の図式に似ているのです。だからこの二人の物語を読んでいったら、何かしら自分にとって得るものがあるのではないか。だからこの二人にも惹かれているのではと思ったのです。

考え方が似ている

西之園萌絵というキャラクターは、私と考え方のタイプが似ています。

あくまでタイプが、です。私は西之園君のように頭の回転が早いわけでも機転が利くわけでもありません。ただ、思考を発散させているという点で見れば似ているのです。(と、自分では思っています)

たしか「すべてがFになる」で触れられていたと思いますが、犀川先生と西之園君の二人は考え方のタイプが異なるという話があったと思います。西之園萌絵が思考を発散させる、犀川創平が思考の出発点を定めてそこから深掘りしていく、というタイプです。

その類型からいうと私は西之園君タイプです(超劣化版ですが)。だから自分とは比べ物にならない回転の早さにへの憧れ半分、同じ発散タイプとしての親しみ半分で好感を持っているのだと思います。

考え方の理想

それに対して犀川先生は、私が憧れる考え方、理想としている理路整然とした考え方をしています。

犀川先生は事件の謎を解くにあたって、スタート地点をはっきりさせることから始めます。

私の場合は問題点をはっきりさせることなく、「こういうことかな?」と思いついたところから手を付けてしまいます。その結果、ああでもないこうでもないと、行ったり来たりしてしまいます。これはミステリを読んでいるときはまさにそうですし、日常生活においてもだいたいそういう考え方をしてしまっています。

その思考の発散がピタッとハマったときは解決までものすごく早いです。一方で思いついたことをポンポン試していく、悪くいえば下手な鉄砲も数打ちゃ当たる作戦なので、解決に至るまでものすごい遠回りをして時間を浪費して無駄に疲れてしまうということがままあります。

仕事でもそんな感じで取り組んでしまうので、昔同僚に「何が問題なのかはっきりさせてから対処しろよ」と怒られたことがあります。ごもっともですが、その問題設定が私にはなかなか難しいのです。

理路整然とした思考を理想としてはいますが、そのやり方がよく分からない。問題点を洗い出しても筋道建てて考えることができません。問題点を列挙しても、結局思いついたところから手をつけてしまうのです。

ですから、「どこを考えたら解決に至るのかを考える」という犀川先生の考え方や問題対処の仕方から、論理的な考え方を学び取れるのではないだろうかなんて考えてしまうのです。

それこそが、私がこのシリーズに向かわせる原動力かもしれません。

ミステリ要素はどうでもいいのかもしれない

このように、S&Mシリーズは私にとっては思考訓練のための物語という位置づけが強いのかもしれません。実際のところ、ミステリとしては読んでいないように思います。

もちろん小説として、ミステリとして面白いとは思います。ただミステリとして面白いからというよりも、自分の理想とするものの考え方をする人物が出てきて、そこから何か学び取れそうな気がしているから読むのだというのが私の場合は正しいような気がします。

自分と似たような考え方をする萌絵がいて、論理的思考で謎に対する犀川がいて、何か学び取れそうな気がしてしまうんですよね。

だから事件の内容とかトリックの趣向とか、私にとってはあまり重要ではないのだと思います。私にとっては、事件そのものより、その解き方・考え方こそが重要なのです。

解き方が重要

「すべてがFになる」で犀川先生は、殺人が行われるために必要な条件が何なのかを考え、そこから事件の真相を導き出しました。

それは「冷たい密室と博士たち」でも同じです。密室殺人が行われるためには何が必要だったのか、それを境界条件として設定することから犀川先生は考え始めます。

境界条件、つまりは今回の殺人事件が行われるためには満たされていなければならない条件、という意味だと思います。出発点が定まれば、自ずと答えは導き出される。そんな犀川先生の解説には惚れ惚れしてしまいます。

個人的に事件の関係者を集めて推理の披露をするパターンは好きではないのですが、このシリーズにおいては許容できてしまいます。なぜなら犀川先生がやっているのは、推理の披露というより事件の解説に近いからだと思います。

出発点はどこか、そこから導き出される事象は何か、そして結論は何か。理路整然とした説明は、犀川先生の肩書のせいもあって、まるで講義を受けているように感じられます。

私はそんな犀川先生の講義が楽しみです。その講義を受けるためには、自分で事件について考えなければなりません。決して犯人が分かればいいというわけではありません。重要なのはどうやって犯人に、真相に至るかの思考の過程です。

私はこう考えた。犀川先生はこう考えた。その2つを対比できたら、何か得られそうな気がしています。

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