アニメGATEを見て感じた違和感を解消すべく、原作を読んでみた
私がこの作品を知ったきっかけはアニメのGATEを見たことでした。第1話を見て「おー、面白いじゃん」と思っていたんですが、1点気になることがあったのです。そこで原作を読んでみることにしたのでした。
あらすじ
東京の新宿に突如巨大な門が出現し、そこから中世ファンタジー世界の軍勢が大挙として押し寄せ、大量の民間人が犠牲となります。今後の安全を確保する意味と、この惨劇の責任を取らせる意味でも、自衛隊を門の向こう側に派遣する・・・というのがこの作品です。
違和感
私が感じた違和感は、この殺戮の描写です。門の向こう側の軍勢が民間人を襲うシーンは不思議なことに何の抵抗も感じなかったのですが、自衛隊員の伊丹が敵の兵士を後ろから羽交い締めにして喉笛を掻っ切るシーンが始まりでした。なんでこの人、こうも平然としているのだろうと。
その違和感が2話で決定的なものになります。自衛隊が門の向こう側に築いた拠点に対し、敵が突撃してきます。自衛隊はこれを殲滅します。相手は剣と弓を手に突撃するような連中です。近代兵器を有した自衛隊と勝負になるわけもなく、戦場には文字とおり敵の死体の山ができ上がるわけです。
そもそも戦争です。いくら相手が原始的な攻撃手段しか持たないからといって、手加減をしたら逆に自分たちの命が危ない。それは分かります。しかしそういう理屈をおいても、容赦なく相手をねじ伏せそして平然としている自衛隊員たちに、腑に落ちない違和感が拭えませんでした。
なんでこの人達は、人間に見える異世界の住人たちを無慈悲に殺戮しておいて、現地の人達とニコニコしながら交流しようとしているのだろうと。いくら攻撃されているからとはいえ、人間に見える生物を殺しておいて何も感じないのだろうかと。トラウマになったりしないのかと。だから原作を読んでみようと思ったわけです。
アニメを見ていて感じた違和感は、原作を読む限りではそんなに感じませんでした。むしろ「あれ? これ意外と面白くね?」と予想に反して楽しめてしまいました。その理由は単純で、アニメでは詳細に描写されていた戦闘シーンが、原作ではサラッと流されているからでした。詳細に描写されていないので違和感を感じようもなかったわけです。
決して殺戮の描写がないわけではありません。原作でも盗賊に襲われる街を救うため、戦闘ヘリでこの盗賊たちを殲滅するシーンがあります。これは現地人を助けて恩を売る意味と、圧倒的な戦力の差を見せつけて戦う気概を挫く意味のあるものでした。が、やっぱり一方的な殺戮ですし、それを気に病む様子は描かれていません。
ただ原作の配分からして、そういった戦闘シーンはこの作品の本質ではないのだなということは分かりました。
ギャップを楽しむ
これはきっとギャップが面白い作品なのです。
異世界の住人たちとは、言葉や文化の壁が存在します。お互いに真面目にコミュニケーションとっているのに、結果として盛大な勘違いが生まれてしまう。主に門の向こう側の人々がびっくりすることになって、それが面白おかしいのです。
たとえば先に述べた盗賊の殲滅戦。街の防衛を指揮していたのは帝国の皇女ピニャですが、圧倒的な力の差を見せつけられこいつらに何か要求されたら拒否できない、帝国なんて赤子の手をひねるように攻め滅ぼされてしまうと戦々恐々とします。力を貸してもらった対価として、何を要求されるのだろうとおののいていたら、自分たちの常識ではあり得ない控えめな約束を取り交わすだけで済んでしまいました。
何か裏があるのかと思いつつも、とりあえず何とかなったと安心するピニャ。しかし自衛隊と交わしたこの約束の存在を知らない自分たちの部下が、早速その条約を破るような行為をしてしまいます。ピニャはムンクの叫び状態です。
自分たち帝国は、そういう状況を相手国を攻め滅ぼす大義名分としてきていました。これはそんな口実を自衛隊に与えてしまうことになるわけです。このままでは帝国はおしまいだ!
皇女としての自らのプライドをかなぐり捨てて謝りに行くピニャ。「まあそんな行き違いもあるでしょうよ」と自衛隊側は寛容な姿勢です。しかし言葉の正確なニュアンスが伝わらず、これを「あんまり適当なことやってっと帝国攻め滅ぼすぞ」と脅されているように受け取ってしまいます。
自衛隊側が口にするよくある冗談のすべてが、ピニャにとっては脅し文句に聞こえてしまって針のむしろ状態というのがとても面白かったです。こういったギャップを際だたせるために、リアルな設定や描写が効いてきているのだと思いました。
腑に落ちない理由
これはフィクションです。そもそも本質的なところではないと分かりました。それでもこの作品を手放しで受け入れられません。
そもそもなぜこうも違和感を感じるのか考えてみました。その理由は3つあります。
1つはワンサイドゲームが起こっても平然としていること。片や剣と馬の軍隊、それに対するは銃と戦車の自衛隊。勝負になるわけがありません。しかも一方的な戦いにもかかわらず、登場人物たちは思い悩む様子すらありません。隊員たちの葛藤が描かれるだけで、この違和感は拭いされていたでしょう。
1つはそれを行っているのが自衛隊であること。フィクションとはいえ実在する組織です。これが日本防衛軍とか架空の組織だったら気にならなかったかもしれません。
そしてもう1つが変にリアルであることでしょうか。フィクションだけども、そこに出てくる国や組織、その装備にはリアルな描写がある。だからフィクションとして割り切れないのかもしれません。
ただ考えてみたところでモヤモヤが晴れるわけではありません。そもそも3つのうちどれかが追加されただけでも、この作品は面白くなくなるのは明らかです。
隊員のトラウマを描かれても、そもそもそういった戦闘部分はこの作品の本質ではありません。そこを掘り下げても仕方ありません。リアル志向は高まるかもしれませんが、この作品はどっちかというとギャグ寄りだと私は思います。
自衛隊が出てこなかったらどうか。そうなると私が一番面白いと思ったギャップが際立たなくなるでしょう。それに架空の組織の説明が必要になって、そもそも政治・軍こと面の描写が楽しくないのに余計に詰まらなくなってしまいます。
ではギャグに振り切ったらどうなるか。やっぱりそれも面白く無いでしょう。リアルな描写があるからこそ、ギャップが際立つのです。
つまるところ、肌に合うか合わないかの問題なのです。この作品の描写に違和感を感じないのであれば十分楽しめるでしょう。違和感を覚えたとしても目を潰れる程度なら、モヤモヤするとしても楽しめると思います。ただそれだけの話だと思います。
要するに、私は微妙な気分です。ものすごい面白くて楽しめた面もあります。一方でなんだかモヤモヤもします。肌に合わないと切り捨ててしまうのもなんだかもったいない気もするので、やっぱり微妙な気分です。
アニメで描かれていない重要な部分
私にはアニメより原作の方が肌に合います。私の中での大きな違和感、一方的な殺戮になってもみんな平然としている、については払拭されませんでした。しかし原作を読むことで理解できた事柄もいくつもあります。
たとえば、イタリカに援軍を送る際に自衛隊の面々が超ヤル気になっていたのはなぜかというのが、アニメでは理由を説明していません。これでは自衛隊が単なる戦闘狂にしか見えません。原作ではその彼らが置かれている状況の説明があります。戦闘要員として特地に滞在している彼らは、乗り込んでみると戦闘がほとんど起こらず、訓練以外にすることがないという状況にあります。しかも活躍の場を得ているのは、伊丹ら偵察隊員たちばかりで鬱憤が溜まっていたというわけです。そこに来てようやく自分たちの出番が回ってきた・・・それならば俺にいかせろとなっていたわけです。やっぱり戦闘狂じゃねえか。
ともかくアニメでは省略されている部分が重要だったりするので、原作を読むことで払拭される違和感もあると思うのです。若干読みづらい部分もありはしますが、原作を読んでみるのもいいかもしれませんよ。
追記
とあるご意見をいただきまして、ちょっと追記したいと思います。
頂いたご意見は、「この作品を批判する人は、多くワンサイドゲームに違和感や嫌悪感を抱くことに立脚している。しかし戦争なのだからワンサイドゲームであることの何がいけないのかと考える人もいる。両者の間には戦争に対する考え方の相違があるのではないか。ワンサイドゲームに違和感を感じる人が、なぜ違和感を感じるのかについてまで言及している意見をあまり見ない。その点について書いてもらえないだろうか」というものでした。
まず、「ワンサイドゲームに違和感を感じる」と書いていますが、より正確には「自衛隊が」ワンサイドゲームしていることに違和感を感じるということです。なんだか自衛隊が虐殺をやっているように感じてしまい、それが違和感の源となっていると思います。作中での自衛隊の行動が虐殺でも侵略でもないのは分かります。しかし連想されてしまうのは止められない。そしてそのイメージが、自分の中にある自衛隊のイメージ(私の中では災害救助隊のイメージ)と乖離していることもまた、感じる違和感の原因かもしれません。
つぎに、戦争においてのワンサイドゲームを私は否定しません。戦争なのだから、自軍の損害ゼロ、相手全滅が一番いいと思います。たとえばアルスラーン戦記(直近に読んでぱっと思い浮かんだのがこれだったので他意はありません)におけるパルス軍とルシタニア軍の戦闘は、ルシタニアのワンサイドゲームといえると思いますが、これについては違和感などは微塵も感じません。正確にはパルス軍の奮闘でルシタニア軍も痛手を食らっているのでワンサイドゲームではないかもしれませんが、罠にハマったパルス軍を一方的に攻撃するところはワンサイドゲームといえると思います。
ではなぜゲートでは違和感を感じるのかというと、私がこれを戦争と認識していないからだと思います。なぜ戦争と認識できないのかと問われると、はっきりしたことは自分でも分かりません。自分の中のイメージでの自衛隊は戦争なんてしない、だから戦争とは思えない・・・のかもしれません。作中では武器や兵器に関するリアルそうなな描写もありますが、私にはよく分からないのです。私がこの作品を「ギャップを楽しむものだ」と認識したことがその証左でしょう。
そして、戦争におけるワンサイドゲームは否定しませんが、私の中でそもそもワンサイドゲームに対してどこか嫌悪感があるのは事実です。その理由は、自分がワンサイドゲームで負けると悲しい、だから自分がワンサイドゲームで勝つ側に回ると気がとがめるというのが理由だと思います。
直近でいえば、私はスプラトゥーンをやっていて感じたのですが、一方的な試合運びになることがあります。相手が不慣れな人ばかりで、それで勝ってもてば気がとがめます。負ければ「相手が強かったのだ」と割り切れなず、悲しい思いをします。ゲームはみんなでわいわい楽しくやりたい、といのが私のスタンスです。
一方で、勝負ごとなのだから真剣勝負であるべきだという考え方もあります。ワンサイドゲームになりそうだからといって手を抜くのは、真剣にやっている相手に失礼です。たとえば高校野球の試合で、一方のチームがボカスカ打ちまくってイニングが進まないという状況になったとします。そんなときに勝ってるチームに対して、相手がかわいそうだから手心を加えろなんていえるわけがありません。一方的な試合運びになっているとしても、そこで手を抜けというのは真剣にやっている相手に失礼です。
それでもワンサイドゲームで勝つのは相手に気が引けます。相手のことを考えると無邪気に喜べません。ワンサイドゲームで負けると、自分自身の存在を否定されたかのように感じてしまい辛いです。単に「スゲー凹むから一方的になぶらないでくれ。その代わりこっちもそんなことしないからさ」というだけなのかもしれません。私の中のワンサイドゲームに対する嫌悪感を噛み砕くと、こういうことだろうと思います。
そう言いつつ戦争なら許容するのは、生命がかかっているからしかたが無いと思えるからでしょう。ゲームなら嫌だというのは、別に生命かけてるわけではないのだから楽しくやろうよということでしょう。高校野球の例では生命はかかっていなくとも、ある意味ではそれよりも大事なものがかかっているから真剣にやるべきだと感じるのでしょう。
最後に、私は別にこのゲートがひどい作品だと貶したいわけではありません(アニメの方は肝心な部分を端折っていてひどいと思いますが)。むしろ原作を読むと、第一印象とは違って思ったより面白くてびっくりしました。ただ、面白いけど違和感を感じる部分があって素直には楽しめないな、というだけです。イタリカの街の攻防戦の後のピニャの狼狽するさまはものすごく面白かったですし、この部分は原作を読むべきだと思います。
あくまで私はこう感じているということです。別にこれが正しい考え方だとも思いませんし、議論がしたいわけでもありません。そもそもうまく言語化できてるのか怪しいところでもあります。しかしながら「こういう考え方もあるよ」というご意見をもらえたことがうれしくて、ついつい長々と書き連ねてしまいました。そんな意見もあるのか程度に見てもらえれば幸いです。
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