Aではない君と

Aではない君と
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自分だったらどうするだろうか。ちゃんと向き合えるだろうか。

Twitterのタイムラインを眺めていたら、ふと流れてきたこの本についての記事。そこから興味を持って読んでみた。

どういう本かというと、とある父親の視点から描かれた物語である。彼には離婚して、今は一緒に暮らしていない14歳の息子がいる。ある日その息子が、殺人事件の容疑者として逮捕されるのである。

息もつかせぬ展開で、途中読むのが辛くなるほどである。それでも目が離せなくて、一気に読み終えてしまった。

私はこの本を、自分だったらどうするだろうかと、自分に置き換えて考えながら読んでいた。本の状況では、息子が殺人事件で逮捕されたという状況であるが、程度の差こそあれ似たような状況には容易に陥ることが考えられる。子供が万引きで補導されたとか、家族が人身事故を起こしたとか。相談なく借金していて首が回らなくなって行方をくらましたといったような似たような状況なんていくつも考えつく。

自分のことなら、自分が起こしたのだからしょうがないことではあるが、家族が起こしたことだったらどうだろう。果たして自分だったら、その本人ときちんと向き合うことができるだろうか。この本を読んでいてずっと頭のなかに居座っていたのは、そんな思いだった。自分とは関係ないことだ、本人の問題だと、切り捨てはしないだろうかと。

子供の起こしたことなのだから親にも責任がある。特にこの本の主人公である父親の立場だったら、私はきちんと向き合える自信がない。離婚して一緒に暮らしていないのである。そんなの私に分かるはずがない。そうやって離婚した元妻を責めるのではないだろうか。今の私なら間違いなくそうしそうである。

この父親は、この事件をきっかけに息子と向き合うことを始める。SOSの信号は発せられていたのに、それに気づいてやることができなかった。そうして息子と向き合っていくのである。

子供と向き合うことが直接的には描かれているが、それは人との向き合い方を考えることとにもつながる。学校で一緒にいる友達、職場の同僚、そういった自分の身近な人達と自分は向き合えているのだろうか。その人が発しているSOSの信号を見て見ぬふりをしているのではないだろうか。そんなことを考えさせられる。

またもう1つの視点でも考えさせられる。それは自分が当事者でないときにどうするだろうかということだ。たとえば自分がこの本の主人公の同僚であったらどうだろうか。同僚の息子が殺人の容疑で逮捕された。そんなときどうするだろうか、何ができるだろうか。または同僚が人殺しであることが判明したときにどうするだろうか。

この本を読んで、人との向き合い方を考えさせられた。自分が罪を犯した者の家族だったらちゃんと現実を見つめられるだろうか。罪を犯したが更生して社会に復帰した者と接点を持ったときに、果たして受け入れることができるだろうか。

私は向き合えるようになりたいと思う。きっと誰もがそうだろう。だが、実際にそんな状況に置かれたときに、私には向き合えると言い切れる自信がない。

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