改めて反応しない練習を読み返してみた
嫌なことがあったとき、たとえば誰かからひどく傷つけられたとき、あなたはその後どうなるだろうか。
私の場合は、その後わりと長い期間に渡ってその嫌な場面を思い出し、負の感情に苛まれてしまう。
何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。あのときああ言い返せばよかった。次に顔合わせるときにどうしたらいいだろう。また嫌なこと言われるのでは。そんな事言うけど、あいつにだって非はあるのになんで自分だけが悪く言われなくてはならないのか。
そんな嫌な気持ちや後悔などがごちゃまぜになって、頭の中でぐるぐる駆け回ってしまう。頭の中はぐちゃぐちゃになる上に、ついでに胃も痛くなる。こんなになってしまうのもアイツのせいだという思いが湧いて、またあの嫌な場面を思い返してしまう。
これではだめだと気分転換をしようとしても、気がついたらふとあの嫌な場面が頭に湧いてきてしまう。癒やし系アニメを見て心を落ち着けようとしても、気がついたらアニメを見ているのではなくて、この嫌な感情に囚われてしまっている。
そんなこんなで2日目に突入して、このループに陥るともう何もできない。そんなときにふと、そういうときは体の感覚に集中して瞑想するのがよいというのを思い出した。どこで見たのか思い返してみると、それが「反応しない練習」だったので、改めて読み返すことにしたのだった。
そもそもなぜ嫌なことを思い返してしまうのか
そもそもなぜ嫌な場面を思い返してしまうのだろうか。それは突き詰めると、「自分は正しい、間違っていない」と思いたいからである。あんなひどいことを言うあいつが悪い、私は間違っていない。だからおかしいのは相手なんだと納得したいのだ。
そのような考えは、そもそもの前提を直視していないから生まれるものなのではないだろうか。本書のスタートラインはまずそこからだ。つまりそもそもの前提とは、「人生とはままならないものである」ということだ。
人生はままならない
そもそも人生は自分の思い通りにはいかない。理不尽なことであふれている。それが現実なのだ。
その現実を直視できないからこそ、理不尽に憤りを覚え、自分の平穏を乱すものに怒りを覚える。相手が間違っているのだと思い込もうとする。
これは理不尽を許せということとは違う。あるものはあると、正しく見なさいということである。このあたりが難しいところなのだが、決して理不尽を許せということではない。理不尽に寛容になれというのとも少し違う。ただ、理不尽に対して癇癪を起こしたところで、そこにある理不尽なことはなくなりはしないことだけは確かだ。
人生はままならない、だから苦しい。であれば、せめて心を乱されることなく生きるための合理的な考え方を、原始仏教から学んでみようというのが本書の内容である。
とはいえ相手を許すことができない
きっかけは相手だったかもしれないが、それを思い返して苦しんでいるのはすべて自分の心から生まれてくる妄想、煩悩である。実際にあったことを思い返して苦しんでいるのではなく、それをきっかけとして相手をやり込める姿を想像したり、さらに相手から苦しめられる未来を想像したりしているのだ。
そんな妄想の中で苦しんだ末に「自分は悪くない、相手が悪い」という結論に至ったとしても、現実は何も変わらない。たとえ実際に100%相手に非のあることだったとしても、妄想の中では何も変わらないのである。なのに嫌な思いを何度も思い返しては苦しむ。それはムダな反応といえるのではないだろうか。
今度あいつにこう言って謝らせようとかいろいろシミュレーションしてみたりしても、それを実際に行動に移したとして相手がどう出るかは図りようがない。自分はあなたの言動で傷つきました、謝ってくださいといえば解決するのだろうか。だが、そもそも人生はままならないのである。相手がどう出るかは相手次第であって、自分でいくら考えてもどうしようもないことである。
考えなければならないことはあるし、考えることが苦痛な悩みのタネというのもある。ただ、必要なものとそうでないものは区別しようということだ。
ただ少なくとも、自分の妄想で作り出した幻に振り回されその中でどれだけ苦しみもがこうとも、残念ながら現実には何の影響もないのである。とすればそうした反応はするだけムダなのだ。だからそのようなムダな反応をしないようにしよう。そのためにはどういう方法があるだろうかについて書いたのが本書だ。
妄想と気づくためには
妄想に気づくためには、現実をしっかりと認識することが大切である。そのために体の感覚に依拠するのがよいそうだ。つまり瞑想である。
自分の呼吸、心音、聞こえる音、肌の感覚。そういった自分の体の感覚で捉えられるものが現実である。その感覚に集中すればよいのである。
この考えで行くと、ネットで飛び交う情報もまた妄想の一種なのかもしれない。誰々がこういった的な情報がごまんと交錯しているが、それに踊らされるのは妄想に反応していることといえるのかもしれない。
自分は現実を見ているのか、それとも頭の中の妄想なのか。
ムダな反応をしないということ
本書の主張は、ムダな反応をしなければ苦しみから解放されるということに尽きるのだが、どうしてもそこになにか胡散臭さが感じられてしまうかもしれない。そのあたり、私も正直わかったようなわかってないようなという感じである。読むのは2回目だが、それでもやっぱり理解しきれない。
だが少なくとも、相手の言動を思い返して苦しくなる状態からは幾分解放されたように思う。相変わらず相手の言動がふと浮かんでくるのだけれど、「いかんいかん、これは妄想だ、私は反応しないぞ」と切り捨てる。少なくともそれで、食欲がわかない・好きなアニメを楽しめないという状態からは脱却できていると思う。
この本の主題は「現実を見なさい、正しく理解しなさい」ということなのだ。
なにか嫌なことがあった後、自分は悪くない、そもそも相手が悪いのだと思ってしまうかもしれない。そんな思いを何度も繰り返してしまうのも、相手のせいだと思うかもしれない。しかし、きっかけは相手の発言であったとしても、今それを頭の中で反芻しているのは自分である。思い返して苦しみを生んでいるのは自分なのだ。きっかけは相手でも、苦しみを生み出しているのはもう自分の中の妄想に切り替わっているのだ。
現実は何も変わらないのに過去の出来事に執着して、嫌な記憶をリフレインして頭の中でifの物語を作り続けて勝手に気分を悪くしている。これはもはや嫌なことを言ってきた相手の問題ではなく、自分が作り出している苦しみなのだ。
苦しみを生む執着から抜け出す
そうは言っても、そもそもあいつの言動が悪かったのだと思ってしまう。しかしそれは、過去への執着である。過去に執着したところで現実は変わらない。どんなに頭を捻ったところで、起こってしまった過去は変えられない。
相変わらず相手を許せないという思いは強く自分の中にある。それを許せないというのは、突き詰めると自分が正しいという執着があるからだ。しかし正しさは人の数だけ存在する。普遍的な正しさもあるだろうが、そもそも人の脳みそは人それぞれ違うのだから、考え方は人それぞれなのだ。だとすれば、正しさだって人それぞれである。なのに自分の考えこそが正しく相手が間違っているというのは、自分の正しさに対する執着といえるだろう。そんな執着もまた、妄想の一種なのだ。
それに固執して苦しんでいるのであれば、それはきっと心のムダな反応なのだ。苦しみを生むなら止めればよいのだ。
相手との関わり方を考える
本書で書かれていることを私なりに端的にまとめると、「現実を正しく見て、ムダな反応で苦しまない」に集約される。
自分が傷つく言動を思い返して、相手についてあれこれ思うことは、自分が生み出した妄想で苦しんでいることなのだ。頭の中であれこれ思い悩んだとしても、現実は変わらない。頭の中で考えて苦しんだ結果、現実が変わるのであればいくらでも苦しめばよいが、残念ながら現実は変わらない。であれば、苦しむだけムダなのだ。そのような妄想にムダに反応して傷つくことはないのである。
とは言っても、自分が傷つく言動をした相手は変わらず現実に存在するし、その人と今後も関わりが続くことに変わりはない。相手の言動を思い返して苦しむことは止められても、顔を合わせなければいけないし、それがきっかけでまた憂鬱なループに陥ってしまうかもしれない。
しかし、自分が苦手だ・嫌だと思うその相手のことだが、果たして正しく相手を見られているだろうか。もしかして、嫌だなと思っているのはなにかに執着しているから、相手のありのままを見れていないからではないか。
こう考えたとき、相手の見え方が自分の中で少し変わったように思う。少なくともどっちが上か、マウントの取り合いの勝つか負けるか以外の視点が生まれたのは確かである。
相手を敵と切り捨ててしまえるほど、自分は相手のことをちゃんと見ていただろうか。また、自分の思いを伝えただろうか。
相変わらず譲れない線はあるけれども。そう簡単に相手に対する苦手意識は拭えないけれども。少なくともあいつは敵だと憎んでいたのは、自分の中の勝手な思い込みだったのではないかとは思えるようにはなった。
現実はままならないと認めることは諦めではない
本の紹介なのか私の体験談なのかよくわからない感じになってしまったが、本書を読み返して改めて思ったことを綴ってみた。
最後になるが、本書を読んでいて誤解しそうだなというか、私もいまひとつ腑に落ちていないことについて少し述べておく。
まず、反応しないというのは心を殺して無感情になれということとは違うということだ。あくまで自分を苦しめるムダな反応を止めようという話である。また、我々は修行僧になるわけではないので、自分にとって心地のよいことを追求していけばよいのである。美味しいものを美味しいと楽しみ、好きなアニメを見て心を癒やされる。そういう快を楽しむ感覚はそのままに、苦しみを生むムダな反応に気づいて止めるように気をつけようということである。
そして現実はままならないと認めることは、理不尽を許すこととは違う。いわれのないことで弾圧されることを是とすることでは決してない。すべてを諦めて受け入れることとも違う。
ままならない現実をベースとしてうまくいったときの喜びを大事にするのか、それともままならない現実を否定してうまくいって当然・うまく行かなくて腹を立てるのかといいかえるとわかりやすいだろうか。などと書いておきながら、自分でも完全に腹落ちしているわけではないのだけれども。
嫌なことがあってそれをリフレインしてしまって苦しくて仕方がないんだ、という人は一度読んでみてほしい。これを読んだから問題が解決するわけではないし、納得のいかない部分もあるかもしれない。この本を読んだからといって、妄想は相変わらず湧いてくるし、ままならない現実に腹を立ててばかりだけれど。それでも何か助けになる部分があるんじゃないかなと思う。
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